大森健司論 俳句会会員評

大森健司俳句作品と俳論等を中心に各会員が思いのまま書き綴ります。

「軍神マルスの子そして光源氏の再来」大森健司俳句世界論ー後編

前回、「軍神マルスの子、そして光源氏の再来」大森 健司氏への俳句論を述べたが、今回は後篇として、さらに掘り下げて行きたいと思っている。

 


[5]表現者としての覚悟

 


藤袴いくつの声を忘れ来し

 


 人生に別れはつきものである。時には、自らが信ずる表現者としての道を突き進むために、こころを鬼にして忘れなければならない〈声〉もあるだろう。

親族、友人、恋人、恩師など、忘れなければならなかった数多くの声を、〈藤袴〉の薄紫のたたずまいの中に、今いっとき振り返る。感傷に浸るためではない。俳句に昇華したのち、また新たな一歩を踏み出すために、である。

氏はかねてより、「俳句と向き合うには覚悟が要る」と述べている。

その「覚悟」の上で初めて「言い切りの文芸」は存在する。

省略の中に読み取れる世界がいつまでも切なく心に残るのである。

 


囀りのひとあをあをと忘れけり

 


 前掲句の四年後に詠まれた作品である。〈囀りのひと〉とは、小鳥のさえずりのような声を持つ人であろうか。四年前に薄紫の藤袴に託して詠まれた数多くの〈声〉があった。しかし師は今や、〈あをあをと〉一人の人を忘れた、と詠んでいる。

やはり掲出句でも〈声〉が鍵になっている。表現者として生きることは、これほどまでに厳しい独りの戦いなのだ。

この一句もまた、師が新たなる次の一歩を踏み出すための「言挙げ」の一句なのである。そして、その覚悟が強ければ強いほどに、私はこの一人の人の美しい声を、いよいよ強く感じざるを得ない。

なぜなら、捉えどころのない声こそが、むしろ際立つ実体として、思い出のよすがになるからである。

忘れられてもう捉えることが出来ない、つまり無いからこその「物のあはれ」である。

厳しさの〈あを〉はどこまでも深く澄んで美しい。

 


自堕落によるがまた来て新生姜

 


坂口安吾の『堕落論』に、次のようなくだりがある。

 


人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。ー略ー

落ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、

救わなければならない。

 


 師にとっての〈自堕落〉な〈よる〉も、このような夜にほかならない。〈新生姜〉の柔らかな繊維、清冽で爽やかな

辛みは、師の心そのものである。夜やみの中から、〈新生姜〉のように、師の詩魂と決意がにおい立ってくるのを感じる。

 


ひぐるまや哀しき砂利の音がする

 


 悲哀多き人生の中、人は〈哀しき砂利の音〉を聞かねばならない日もある。〈ひぐるま〉は、そんな〈哀しき砂利の音〉

を、逃げることなくじっと聞いている。〈向日葵〉、あるいは〈ひまわり〉としたのでは、決して師の心象は表現し得なかったであろう。〈ひぐるま〉としたからこそ、作中主体の自己投影が可能なのだと考える。

 


ひまわりや切り絵のごとく夜を覇る

 


 〈ひまわり〉は、太陽の花として昼を制覇するのみならず、〈夜〉をも制覇するのだろうか。作中主体の心象風景なの

かもしれない。〈切り絵のごとく〉鋭利な〈ひまわり〉の〈夜〉のシルエットは、師の鋭い感性そのものである。

〈夜を覇〉った〈ひまわり〉は、静かに新しい夜明けを待っているのである。

 


花八ツ手風のもつれは風がとく 

 


 人生の困難に直面した時、自然の法則に泰然自若として身を任せる、師のしたたかなしなやかさが感じられる。

薄クリーム色の繊細な八ツ手の花の中を通り抜ける風。もつれたように見えても、ゆるやかに解けて、やがて自らの力に〈花八ツ手〉のあいを吹きわたってゆく。中七、下五の力強い言い切りにより、読者のこころも自ずと浄化され、自然と

一体になってゆく。力強くも美しい一句である。

 


[6]幻想性、物語性の中のエロティシズム

 


ひりひりとヨセフの暮らす無月かな

 


 どこか物語めいた一句である。〈ヨセフ〉とは、キリストの父である大工の〈ヨセフ〉であろうか。神の子である

キリストにとって、〈ヨセフ〉はかりそめの父親である。「父であって父ではない」存在は、既に〈無月〉という死のやみに存在しているのかもしれない。あるいは「父であって父ではない幻影」が、師の心の中に今もひりひりと棲み続けているのであろうか。中東の厳しい砂漠地帯の風景も、師の心象風景に重なる。

 いずれにしても、さまざまな景や想いは、遥かなる無月のやみに覆われている。このような謎めいた物語性の中に、

師の人生の光景を、私たちは一瞬垣間見るのである。

 


穴だけが五月の色になってゐし

 


 よくわからないが、感覚的に共感してしまった一句である。五月は狂気の季節でもある。新緑の凄まじいエネルギー。

湿り気を帯びた五月やみの、底知れぬ深さ。五感の穴をフル回転させて作句すべき季節なのに、自然のエネルギーの中に

わが身が融け入り、私の思考は完全にストップしてしまう。そんな時、『荘子』における「混沌」を思い出す。

 師から、「本当は何も詠まないのが一番良いのかもしれない」と、聞いたことがある。それこそが「混沌」であり、

「無」なのだろうか。「作句に必要なのは、瞬発力と第六感である」とも、教わった。穴を〈五月の色〉に満たし、

五感のその先にある、師の第六感が冴えわたる季節なのであろう。

今年の師の初夏の作品、

 


万緑やわが静脈の疾走す

 


にも、そのことがよく表われていると思うのである。 

良く分からなくても感覚的に共感してしまうのは、大森健司氏の持つ「美しい狂気」が他の者の追随をゆるさない俳句への情熱の表れである。

その狂気と情熱に触れた者は、皆虜になり、もはや逃れられない。

王朝文学に通じる雅さと品位を持ち、真の「詩のこころ」を理解している俳人はおそらく、今後輩出されないであろう。

これからの日本の俳句界、短詩界を牽引するのは間違いなく、大森健司氏をおいて他にいない。

私はこれを断言したい。

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御写真は「森俳句会」代表 大森健司氏

 

 

「森俳句会」会員 三谷しのぶ

「軍神マルスの子そして光源氏の再来」大森健司氏の俳句世界論


[はじめに]


私が大森健司氏のもとで俳句を学び始めてから、まだ五年にも満たない。しかしそのわずかな期間に私が見た、師の俳句世界のすばらしさは、想像をはるかに超えるものだった。


師の作品の魅力は、その世界の広がりと多面性にある。光を当てる方向によって、いくつもの異なる光を放つ、多面体の宝石に似ている。そんな師のここ数年の新しい作品の一部を取り上げて、鑑賞という形で味わってみた。一句でも良いので、お目通しいただき、師の作品と、そのお人柄について知っていただくきっかけになれば幸いだ。

 

[1]表現者としての覚悟


背泳ぎやひとつの星の還りゆく

 〈ひとつの星〉が流れて消えたのだろうか。ゆっくりと背泳ぎをしていなければ捉えることのできない悠久の刹那である。多くの人は、そのような美しい宇宙の刹那を見ることもなくく、水底を見たまま、クロールでせかせかと泳いで一生を終えてゆくのだろう。〈ひとつの星〉も、小さな一人の人間も、死ねば粒子となって宇宙に還ってゆく。生まれては死に、死んでは生まれる永遠のいのちの円環を想う。

 「心を無にして、宇宙と一体化してゆく刹那を愛おしむことこそが俳句なのだ」と、この一句に教えられた。私にとってそのような俳句の道はまだ始まったばかりだ。そして、険しく美しい。

 

また水の景色に坐る天の川 

 〈また〉という一語が眼目である。常にあおあおとした少年性溢れる師であるが、世間のしがらみの中で、表現者としての純粋な少年性を保つのは容易なことではない。心が濁りそうなとき、師は、〈また水の景色に坐る〉のである。水はいのちの源。広々とした大海原か、あるいは紺碧の宇宙の海だろうか。〈水の景色に坐〉り、少年に還った師の心は〈天の川〉で泳いでいるのかもしれない。〈天の川〉の無限の星ぼしのように、師からまた新たな作品が生まれることだろう。

 

白扇ここより海のはじまりぬ

 〈扇〉とは自己と他者をわける結界であり、貴人同士が差し交せば世界の共有を意味する。まして〈白扇〉(しらおうぎ)である。武士が主君より白扇を下賜されれば、それは「切腹」という名誉の死を与えられた、ということである。侍が辞世の一句を吟じて死に赴くごとく、表現者としての師の覚悟の〈海〉がそこにある。「この一句を吟じたら死んでもよい」位の覚悟は、今を生きる師の生を、むしろ際立たせている。今、師は新たな〈海のはじまり〉を感じている。そして命がけで漕ぎ出そうとしている。白扇の白と、少年性をたたえた海の青との対比が鮮やかだ。

 

[2]少年性


天道虫爪で彈きて星を出す

 思わず、微笑みたくなる一句だ。何ともお茶目で純粋な少年性は、生涯、師の心に棲み続けるに違いない。掲出句は、汚れのないこころの「神の遊び」といえるのかもしれない。

 

春ひとり青クレヨンを減らしけり

 真っ白な画用紙(決してスケッチブックではない)に、夢中になってクレヨン(決して絵具ではない)で絵を描いた幼き日は誰にでもあっただろう。しかし、描けば描くほどに、お気に入りの色だけが減っていった遠き日のひとこまを、一体どれだけの人が覚えているだろうか。

 師のお気に入りは〈青クレヨン〉だ。空や海の色に通ずる〈青〉は、師の内面に今も息づく、無心の少年性に他ならない。表現者の戦いは孤独である。しかし、何物にも汚されない少年の純粋さでもっていのち目覚める春のひとひを、師は〈青クレヨンを減ら〉すのである。何気ない措辞のすべてに、隠された言葉の重層性を思わずにはいられない。

 

[3]幻想性、物語性の中のエロティシズム


夕さればをんな睡蓮から生まる

 イギリスの画家ウォーターハウス作の『ヒュラスとニンフたち』という絵がある。睡蓮の沼のニンフ達が、少年の美しさに打たれて彼を水中に引き込んでしまう場面が、幻想的に描かれている。七人のニンフ達は少女でありながら、底知れない魔力を秘めた瞳とその姿態で、少年を誘惑する。


 師の俳句世界は、常に自然と一体のところにある。それは時として、この絵のような幻想性と物語性を帯びて表出するが、〈夕さり〉の〈睡蓮〉から生まれる〈をんな〉は、日本的な恥じらいをもって楚々として揺蕩(たゆた)っているのかもしれない。

 

赤すぎる月やうすもの身を離る

 五月の狂気とはまた違った、〈月〉の狂気が美しい。〈赤すぎる月〉の魔性に包まれながら、うすものをはらりと落とす実体が描かれていないからこそ、読者はその艶なる物語世界へと引き込まれてゆく。今宵の恋の相手は、狐か、いや、白蛇かもしれない。


 虚と現実の間を、師の魂は自由に往き来して、幻想性、物語性の中を遊ぶのである。他にも、京都生粋の俳人らしいみやびと物語性の中に、エロティシズムが香り立つ、師の作品を挙げてみよう。


うすらひや舞妓の紅の匂ひだす


朧よりをとこのにほひ濃いく戻る


夕立きぬをんなの息と息の間に


五月雨や白き足袋など散らばりぬ


湯浴みしてまだ夜がありぬ乱れ萩


抜き襟や香の香(こうのか)もれし十三夜


角帯の着崩るるままにすいふよう


どの作品にも、俳句の「言い切り」という詩形態を存分に発揮しつつ、核心は「言わない」という、師の美学が強く表れている。あくまでも品格を保ちつつ、読み手の想像力を、自らのエロティシズムの世界へと引き込んで行こうとする、心の余裕と遊びが感じられる。王朝絵巻を彷彿とさせる美しさだ。

 

[4]生まれ月三月・春に得るパワー


手鏡や弥生の水の鳴りて過ぐ


花の午後水の明るさ注ぎけり


花曇り水飲む鎖骨光りけり


掲出句は、全て春の句であるが、師は春の水にパワーを得ているように思われる。清冽な〈弥生〉の水は、いのちの音に〈鳴り〉、〈水の明るさ〉を自らの体内に〈注ぎ〉、〈水飲む鎖骨〉までもが、春を〈光り〉始めるのだ。


師の生まれ月は〈弥生〉三月、そして三月神マルスは戦いの神である。魚座の師が、春の水、いのちの水のパワーを得て、自らの定めた道を歩む姿に、軍神マルスのイメージが重なる。

俳句という武器に身を捧げ、生涯「軍神マルスの子」として、俳壇に風穴を開けるべく、突き進めて行かれるのであろう。

 

[おわりに]

師の作品について、四つの項目に分けて鑑賞してみたが、もちろんこう言った項目で単純に区別できるものではない。一つの作品には、さらに多くの特性が重奏的に響きあっている。例えば、


天爪粉舞妓きのふの匂ひ消す


という作品では、舞妓の秘めやかな姿が描かれている。しかしそれだけではない。一見華やかな舞妓にも、人知れぬ苦労や憂いがあるだろう。〈きのふの匂ひ〉は一切〈消し〉去って、〈天爪粉〉をその肌にはたく。そして、今日の客のために新たな化粧を施し、夢を売るのである。つまり、この一句は強さに裏打ちされた〈舞妓〉の美しさを描いているのである。それはそのまま師の生き方に繋がっているといえよう。


かんざしをきつくひきよせ零れ花


 お茶屋遊びの一場面であろうか。舞妓の色香と振袖の花ばながの彩が、作中主体に〈きつくひきよせ〉られてお座敷一面に零れ散るような、動きのある一瞬の情景は、映画の一場面のようだ。誰もが振り向く容姿端麗な師の姿を想えば、これは、源氏物語絵巻である。しかし、この一句にもまた、さらに深い意味が込められている。


芸一本で、これから身を立てていこうと歩みだした舞妓に対する、師の愛情が感じられるのである。なぜなら師も、表現者として独り戦う者だからである。光源氏的な、まめやかな愛が、けなげなうつくしさを愛おしむかのようである。


仮にこの一句が〈肩を引き寄せ〉るのであったら、単なるエロティシズムに終わってしまうだろう。〈かんざし〉には、伝統美を追究する舞妓の象徴性が秘められているのだ。師は、その〈かんざし〉もろとも力強く引き寄せるのである。

心まで持って行かれた舞妓が、まるで花びらが崩れ落ちるかのように「零れ」る姿が儚くも美しい。

 

以上のような鑑賞から、私たちは師の中に共存する「二つの姿」を見ることができる。


一つは、表現者として人生を戦ってゆく「軍神マルス」の姿、そしてもう一つは、生粋の京都俳人である師の、華やかで艶のある「光源氏」的な姿である。四つの項目だけではとても論じきれない様々な作品の特性は、全て師のうちに共存するこの二つの姿から生み出されていると思うのである。


人生における「事実」とは、途切れることのない、膨大な時間の流れの中にあるが、その中に時折訪れる「真実」の瞬間を切り取るのが「俳句」なのだと考える。そのために「虚」と「事実」の間にある「真実」を求めて、師の魂は縦横無尽に往き来する。むしろ、「虚」の中にこそ「真実」があるとも言えるだろう。


もともと、自然と一体化するという古来よりの日本人の民族性が極められたものが「季語」である。しかし、そういった「季語」の恩寵をはるかに超越して、無限の宇宙空間を創り出す師の俳句に、いつも驚きと敬意の念を抱かずにはいられない。そこには、時代の変化にかかわらず己を貫く、日本的な「軍神マルスの子」の顔がある。また一方で、艶やかな物語の刹那を楽しむ「光源氏」の血を受け継ぐ師の顔もあるわけだが、険しい人生の戦いのアンビバレンスとして華やかなエロティシズムが、星のような輝きを放っているのである。

 

最後に次の一句を挙げる


名の月や跣足(はだし)であるくけものみち

 名の月(名月)に照らし出された師の横顔は、光源氏のように美しいだろう。しかし、その足は跣足(はだし)である。軍神マルスをも凌ぐ野性のパワーが、〈名の月〉のもと、尽きせぬ泉のように、師の内側から溢れ出しているのである。


師は、あえて〈けものみち〉を選んだ。厳しく美しい一本の〈けものみち〉。大いなる自然と一体になりながら、師は

裸の心で、これからも俳句の道を歩み続けてゆく。〈名の月〉の、さやけくも鋭いひかりを全身に浴びながら。

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御写真は「森俳句会」代表 大森健司氏

 

「森俳句会」会員 三谷しのぶ